小石川後楽園を世界遺産に(その3)

NPO法人小石川後楽園庭園保存会 理事長
水戸大使  本多忠夫

3,大名庭園とは

 何故、小石川後楽園を世界遺産として登録したいのか。それだけの魅力や価値があるのか。という疑問は後楽園を知らない人にとっては当然のことと思われる。まず、小石川後楽園の魅力や素晴らしさ、特徴・特色について述べる前に大名庭園とは何かから説明していくこととする。

 大名庭園は、戦乱に明け暮れた時代を制した徳川家康によって開かれた江戸時代初期に大名達によって造られた庭の総称である。大きく2つに分類される。

 その一つは、参勤交代制度が確立すると、諸大名は江戸に屋敷を作り妻や子を住まわせ、諸大名は1年ごとに国元の城を離れて江戸に住み、将軍家に仕えた。その江戸の屋敷に作られた庭園である。他の一つは諸大名の国元の城内や城外に住まいを造り、そこにお庭を作った。平和な時代となり、戦争する必要がなくなると、城造りをする必要がなくなり、幕府からの進めもあって、大名は競って庭園造りに励み、自らの憩いの場としたり、或いは別荘として一時期を過ごしたり、周辺大名同士の親交の場として使用していたのだ。

 大名庭園の形式は回遊式築山泉水庭園といわれるもので、他の時代に築かれてきた庭とは規模的にも形式的にも異なる。但し、その技術や庭に込められた思い、心を受けつぎ、平和な時代となった江戸時代になって、新な技術を付加して集大成して築きあげた文化財なのだ。

 それと、西欧諸国で作られた庭と根本的に異なる考え方で作られたおり、まさに日本的な庭を造り出したのである。即ち、西欧の自然観と日本の自然観とは根本的に異なり、それを象徴しているのがこの庭である。

西欧の庭と日本の庭

 西欧人は、自分や家族以外の人や自然を含むあらゆる物が敵なのだ。自分以外を信じられれない人々である。人の叡智と自然とを対局に描いた場合、西欧は、自然を征服できるもの、挑戦すべきものと考えた。したがって、科学技術が日本より先行したことは事実である。

 人あっての自然であった。人々を納める、権力者国王が最も偉大であった。庭もこの国王のためのものであり、国王の住む宮殿を中心に作られたものである。

 宮殿が作られる敷地は真っ平らに水平にして、石畳で覆い、幾何学模様を形取り、池も四角張った四角形や円計として中央には噴水を儲け、中央に天に届かんばかりの高層なる宮殿を設置する。庭はどちらかというと、民衆が集まる広場であり、宮殿のバルコニーから権力者が市民に向かって権力を誇示する演説を行ったり挨拶するというように、人が中心の造形物であった。

  一方、日本では、家族以外の人でも、敵とみるより、自然災害に対して協力しあうものとの見方が強く、皆、仲間であるという意識が強い民族となり、自然は、非常に恐れ多いものものであり、且つ、敬愛すべきもので崇拝の対象であった。この世の摂理は全て自然がもたらすものあった。したがって、人は自然に頭が上がらぬものであった。自然イコール神であった。自然に抱かれていることが最も快かったのである。よって、庭を造るにしても、如何に自然と一体化するかが大きなテーマであった。庭園の中心は神であり、神は、一定の建造物には宿らず、時に応じて降臨してくるものであった。大きな岩や高い樹木、広々して水たまりには神々が降臨すると信じられていた。池を作るにしても直線を避け、自然の湖や池、或いは海を連想させるような曲線をもちいた。池を掘った土は築山として盛られ、自然の山々を連想させた。こうしたことがはっきり反映されているのが、江戸時代に多く作られた大名庭園なのである。大名屋敷内の広大な一画を屋敷と切り離して庭園にしたものである。

大名庭園が作庭された時代背景

 1603年、戦乱に明け暮れた時代を制した徳川家康は初代将軍となり江戸に幕府を開いた。諸大名は徳川家に平伏し、忠誠を誓わせられ、その証が人質として妻や子を国元に置くのではなく江戸に住まわせたのだ。この制度を確立したのが三代将軍家光になってからであるが、家康には既に平和を維持し、徳川家が代々引き継いで行くための施策を二重三重に用意していた。その為の設計図が出来ていたので、まず、将軍家を世襲制にしていくため、自らが生きている間に2代目を世襲させた。たった2年で3男での秀忠に将軍の座を譲った。そして、自分は江戸から離れ駿府に住み、大御所として君臨し、結果的に豊臣家を崩壊せしめ、将来、徳川家にとってその存在を脅かす脅威となるものをきれいに取りの除いていった。2代将軍秀忠は天下普請といって江戸城を中心とした江戸城下町を着実に築いていき、参勤交代が制度化される以前でも、徳川家に忠誠を示す多くの大名は進んで人質として妻子を差し出した。

 将軍は彼等の住まいとなる敷地を用意した。譜代の大名や外様大名ときちんと区別して天下普請を行った。更に3大将軍家光の時代となって参勤交代が制度化され、全ての大名が江戸に人質を置くための敷地が与えられた。それも最低三つ以上の敷地が与えられたのだ。即ち、上屋敷、中屋敷、それに下屋敷である。したって江戸には当時260から270と言われる大名の屋敷が3箇所ずつ用意されたわけであるから1,000近い大名屋敷があった。その屋敷にそれぞれ住まいとなるお屋敷と庭が造られた。これには幕府のさらなる意図があった。

 大名が徳川家に刃向かってこないよう人質をとして妻子を江戸に住まわせるだけでなく、国元の財力を疲弊化させるための施策である。参勤交代に多くの資金を課せさせ、屋敷造りにも巨費を投じさせたのだ。その上でそれぞれの国元に対して隠密を放ち、些細なことでも改易していった。一方、江戸の名物は火事であり、その拡大を食い止める上で必要なのは遮蔽物となる大きな空間地と緑、そして水の蓄えられた空間地だ。即ち、回遊式筑山泉水庭園が奨励された。また、庭園内には一般に茶室が作られたり、能舞台も用意され、将軍を招いたり、大名同士のもてなしの空間として活用していった。

 戦乱の世を平和な世に変革していった装置としての役割も持っていたのだ。将軍家、即ち徳川家と各大名が親しくなることであり、大名同士の争いがない世こそ平和な世なればのことである。茶室はもてなしの空間として最たる装置であった。茶の湯文化が開花したのだ。大名同士の親交を暖めさせる装置でもあったのだ。こうした時代に作庭された庭を大名庭園と称し、その手本とされたのが小石川後楽園なのである。