小石川後楽園を世界遺産に(その10)

NPO法人小石川後楽園庭園保存会 理事長
水戸大使  本多忠夫

9・2 家康入城後の居城づくり

 家康がこの江戸を本拠地にしようとしたのは、外延的な将来性にあったといえよう。しかし、家康が入城したときの城は、名ばかりで、太田氏が築いた城の面影はなく、城内の建物の屋根は柿葺(こけらぶき)など一つもなく、民家と同じような板葺きで、内部の床は土間で、板敷ではなかった。石垣もなく、全て、芝土居であって、竹木が茂っていたという。

 関八州240万石の大大名の居城としてはあまりにも貧弱であった。そこでまず始めたのが、本城の中心である本丸を建築し、同時に城下局沢にあった16ケ寺を移転してその跡に「御隠居御城」後の西の丸を普請した。しかしこの工事は、秀吉の命で、伏見城を家康に普請させることになり中途で中止された。一方、城下町の普請は家康が秀吉より、小田原城落城(1590年7月6日)の論功行償により北条氏の旧領である関八州を与えられ、7月23日には家康は一度江戸に入っていたという説があるが、正式にはその年の8月1日をもって家康江戸城入城日とされている。当初家康は、関八州を与えられたので、その居城をどこにするか考えたそうである。小田原城を再建して拠点とすることも考えたが、関八州の支配地としては西に偏りすぎた。そこで、江戸を見ると、先に触れたように道灌以後、近世都市としての外延的広がりの下地が作られており、東海道、甲州道中、、奥羽道中の主要陸路を集約していた。且つ、波静かな江戸湾奥部に位置し、優れた海港を持っていた。しかし、江戸は自然的立地条件としては恵まれた位置にあったが、平坦地が少なく、東側の平川、隅田川一帯のデルタは低湿地帯で、西側の後背地である武蔵野一帯は水利の不便な原野であった。こうした土地を開拓し農業基盤を中心とした近世城下町を築くとなると優秀な土木技術が必要とされる。家康は、そうした面で成算があった。江戸がこうして現在も尚近代都市として栄えているのは、当時世界でもまれなる大規模な自然改造技術があった結果である。

(1)天下普請

 1598年豊臣秀吉が没し、1600年関ヶ原の合戦で徳川家康側が勝利するに及んで1603年には政夷大将軍になる。ここに家康は晴れて、江戸を拠点とした幕府を開設する。江戸の城下町としての整備は、それまでは一大名の居城づくりであったが、幕府の拠点としての江戸の開発は全く意味合いが異なる。

 天下人が住まう城はもはや戦闘用の必要はなく、その権力の象徴としての天守閣は大阪城をしのぐ偉容を誇っていた。天守閣が完成したのは1607年(慶長12年)、大御所になっていた家康の居館である西の丸が完成したのは1612年(慶長17年)である。家康は1605年には将軍職を三男の秀忠に譲り、自らは大御所になって、駿府に居城を構築して死ぬまでここで過ごした。以後江戸の天下普請は二代将軍秀忠によってなされた。1614年大阪冬の陣、そして1615年の大阪夏の陣によって豊臣は滅亡した。次いで、「武家諸法度」「禁中並公家法度」を制定して幕府の基礎を固めた。1616年(元和2年)4月17日家康は75歳で病死した。

 秀忠によって天下普請は引き継がれ、城を囲む堀は太田道灌時代の堀を基礎に内堀とし、新たにその周囲に外堀を巡らした。これはもはや敵の侵入を防ぐ防御策というより災害(水害)から、城を守るという意味での方が大きかったと言えよう。こうして江戸は、江戸城を中心とする大がかりな城下町を普請していった。これが天下普請である。江戸城を中心に各藩の大名屋敷を建設させた。当然、内堀内の城の近くに御三家である尾張、紀伊、そして水戸屋敷を作らせた。ところが1657年の明暦の大火により、天守閣はもとより、全てが焼失してしまった。そして以後、天守閣の再建はなかった。内堀内の御三家の(上)屋敷もそのまま再建することはなかった。外堀の外の中屋敷を上屋敷として再建させたのである。天守閣建設後45年で姿を消した。諸制度の実行により地方大名による反乱は事前対策により、疑わしい大名は根こそぎ失脚させ今更刃向かってくる者が考えられなくなっていた。天守閣も必要でなくなったし、御三家も、内堀内に配置しておく理由もなくなったからである。

 天下普請で大がかりな土木工事の一つは、現在の利根川が、江戸時代前までは隅田川と直結しており、しばしば氾濫し、お城を脅かせていた。そこで利根川の流れを現在のように千葉県と茨城県の境の太平洋側に流を変えさせたのである。また、神田山の山頂部を削り、現在の日比谷地区が浅瀬の入江であったのを埋め立て、更に外堀としての機能を持たせて、神田川を隅田川まで掘らせた。これを、仙台の伊達政宗によって築造させたという。当時は伊達堀と言われていた。インフラの整備も急ピッチでなされ、神田上水や、玉川上水が敷かれ、江戸中上水の恩恵に預かっていた。また、五街道の整備を行い、日本中から江戸へと参勤交代で来られるよう整備したのである。

 後楽園は、この神田上水を引き込み大泉水として生かしたのである。水戸藩は、御三家の一つであり、戦国大名と比べて、新参者である。家康の強い意志で誕生した特別の大名として位置付けたといわれている。他の二家は尾張藩、紀伊藩である。尾張藩の初代藩主は家康の9男の義直、紀伊藩は10男義宣、そして水戸藩は11男である賴房である。

 こうして、水戸藩は現在の小石川の土地を三代将軍より1629年に下賜された。そして初代藩主賴房が屋敷を建て、庭の作庭に取りかかった。水戸藩は尾張藩や紀州藩と比べて、石高が低く、従って、屋敷の広さも狭い。そのようなこともあって、水戸藩は歴代参勤交代はせずに、江戸に常駐することが認められた。よって、水戸藩藩主は、副将軍と呼ばれた。特に、二代藩主光圀がそう呼ばれたが、現実的には御三家は、あくまで、将軍の家臣であり、政治に口出しすることは許せなかった。こうした時代に水戸藩の屋敷内に作られたのが後楽園であった。

 正に家康亡くして後楽園の存在はなかったこととなる

(2)江戸の人口

 江戸初期の1610年頃の江戸の人口は資料がないので、外国人の見聞録とか後世の研究者による推計によると15万人と推計され、これは伊達藩の仙台とほぼ同数である。最も日本で人口が多かったのは京都の40万人、そして大阪の29万人であった。駿府は12万人、堺は8万人であった。1640年になると京都とほぼ同じ40万人ほどとなる。そして1695年には約80万人となって天下一の大江戸となる。1721年の幕府の調査によると、武家人口約65万人、寺社人口5万人〜6万人、町人人口約60万人とされ合わせて130万人は下らなかったと言う。ヨーロッパで第一位はイギリスのロンドンで1801年85万人と言われており江戸の人口は名実ともに世界一の人口であった。

(3)江戸の武家地面積等

 1869年(明治2年)の実態調査によると江戸の総面積は17.05万キロm²その内訳を見ると武家地は38.653キロm²、寺社地8.799キロm²、町人地8.913キロm²である。構成比は武家地68.58%、寺社地15.61%、町人地15.81%であった。このように江戸の都市計画は武士政治の為の都市づくりであり、町人(職人、商人)はあくまで武士及びその生活を支える補完機能的存在であった。