オセロ創案者、父長谷川五郎を偲んで
一般社団法人日本オセロ連盟 専務理事
長谷川 武
「オセロ」を発案、創りあげた父、長谷川五郎が亡くなって、まもなく10年になります。先日、第21回水戸市長杯小学生オセロ選手権に伺わせていただく機会があり、それを機に父が大切に保管していた、「オセロ」発売開始当時から晩年までの新聞記事、ニュース等を改めて読み返し、改めて「オセロ」の歩んできた歴史を振り返りました。
- 1973年(昭和48年)から1974年(昭和49年)当時、多くの新聞報道で新しいゲームとして取り上げられ、爆発的にヒットし、「オセロ」が誰もが知るゲームとなったこと
- 1979年(昭和54年)当時、ローマで第3回世界大会が開催され、ローマ法王に「オセロ」を献上する等、「オセロ」の最盛期というべき、世界的な盛り上がりを見せたこと
- 1991年(平成3年)当時、販売開始から約20年近くになり、当初のブームは落ち着きましたが、世界大会を毎年開く国際的な定番ゲームに成長したこと
- 2006年(平成18年)当時、「オセロ」発祥の地、水戸で第30回世界大会が開催されたこと
今では「オセロ」というと誰でも知っているゲームであり、「オセロをやろう」と言えば誰とでも気軽に楽しめるのが当たり前となっています。しかし1973年に「オセロ」が発売開始される以前は、決してそうではありませんでした。「オセロ」と似たゲームがあるといわれることもありますが、1973年から1974年当時の多くの新聞報道を振り返ると、「オセロ」は新しいゲームとして受け入れられ、社会現象となるほど爆発的なヒットを記録したことが分かります。約50年前の「1973年オセロ発売開始」は、少し大げさに感じるかもしれませんが、歴史の転換点だったと感じています。
しかしアイデアだけでは誰もが知るゲームとはなりません。この歴史には、牛乳瓶のふたで手作りしたオセロ石に象徴されるような、父の「オセロ」に対する創意工夫、情熱、地道な努力がありました。そして何よりも「オセロ」を愛していただいている全国のオセロプレイヤーの方々、水戸市の方々をはじめとしたご関係いただいている方々のご尽力があってこそだと思います。父に代わりまして、改めて心より感謝申し上げます。

〔参考〕牛乳瓶のふたで作った初期のオセロの石
父は、「一人でも多くの方々がオセロを末永く楽しんでほしい」と願い、亡くなる当日まで「オセロ」の原稿を書き続けるなど、生涯「オセロ」普及に情熱を注ぎました。特に「オセロ」の爆発的ヒットが収まった後の晩年は、一人でも多くの方々に「オセロ」を末永く楽しんでいただくため、高齢にもかかわらず粘り強く数多くの対外活動や執筆に取り組み、その中で父の故郷「水戸」での思い出や経験もたびたび語っていました。
〔ご参考〕2002年(平成14年)東京知道会会報(旧在京水中一高会)抜粋(PDF)
父は水戸で生まれ育ち、大学卒業までの約30年間を水戸で過ごしました。水戸では多くの先輩や友人、後輩に恵まれ、楽しい思い出も多かったと聞いていますが、その前半は太平洋戦争という時代であったこともあり、以下の通りさまざまな幸運と貴重な経験も得ています。
- 水戸大空襲で、炎の中で家族と離れ離れになりながらも、九死に一生を得て家族と再会できたこと
- 戦後、焼け野原となった青空教室であっても、平和な水戸で学生生活を再開できたこと
- 学校では青空教室では遊ぶものはほとんどなかったため、現在の「オセロ」の原型となるゲームを考案・創って学友の方々と楽しんだこと
- その後栄養失調となり、約6年間の長期療養生活を送りましたが、新薬により奇跡的に回復・復学。その後茨城大学に入学・首席で卒業したこと
結果論ですが、水戸での多くの方々の交流、そして水戸での経験が、父が「オセロ」を創りだす礎になったことを改めて感じています。
父は、水戸の茨城大学を卒業後、製薬会社に勤務しながら、約6年間の療養生活の遅れを挽回するため、弁護士を目指し人一倍勉強に取り組んでいました。しかし1968年に私がまだ母のお腹にいるとき交通事故に遭い、弁護士への夢を断念せざるを得ませんでした。それで父はこの挫折から再び奮起し、「水戸の青空の下で仲間たちと遊んだゲーム」を思い出し、牛乳瓶のふたで手作りした「オセロ」を、勤務先の方々や営業先である病院の方々にレクリエーションとして提案したことが、現在の「オセロ」のきっかけとなったのです。
牛乳瓶のふたで手作りした「オセロ」は非常に評判が良かったそうですが、「オセロ発売開始」は決して簡単ではなく、父も当時、悩んだことも多かったそうです。家族を養いながら製薬会社に勤務する一会社員の立場で、玩具会社へアイデアを持ち込んだり、販売開始のために当時住宅購入の頭金としてコツコツ貯金していた全財産を投入してオセロ大会を帝国ホテルで開催したりしました。今、私が仮に同じ立場になったとしても、躊躇してその行動を行えるとはとても思えません。祖父・長谷川四郎や母だけではなく、病院の先生方や水戸の友人たちからも温かい反応や励まし、後押しをいただいたおかげで、本来一個人では到底成しえない「1973年オセロ発売開始」に挑戦し、実現へとつなげることができたのだと思います。
私事ですが、約20年前、私の娘が大病を患った際に、父から「明けない夜はない(シェイクスピア)」「待て、而して希望せよ(アレクサンドル・デュマ)」という直筆の励ましの言葉をもらい深く感動しました。今振り返ると、父の言葉には、水戸の英文学者であった祖父長谷川四郎の教えに加え、父自身の水戸で得た貴重な経験に基づいた重みがあったと思っています。
「どんな強烈な事実であっても、時は全てを風化させてしまう」。「一人でも多くの方々がオセロを末永く楽しんでほしい」。これは父が繰り返し語っていた言葉です。前者には、父自身の戦争体験を通じて感じた戦争の悲惨さ・平和の尊さ、後者には「オセロ」への情熱が込められていました。
昭和の「オセロ」発売開始から半世紀を超え、現在でも「オセロ」は誰もが知る有名な定番ゲームとして親しまれています。しかし「オセロ」の存在があまり当たり前すぎて、1973年から1974年当時、「オセロ」が、新しいゲームとして登場・受容され爆発的ヒットした事実が、次第に風化しつつあると感じます。
また、時代とともに多くのものが変わっていき、永遠に変わらないものはほとんどありません。
今や、50年前には想像がつかないほどデジタル技術が発展し、デジタル技術を活用した多くの魅力的なオンラインゲーム、スマホゲーム等が社会にあふれています。父が大切に保管していた、オセロ発売開始の年(1973年)の雑誌「エース」には、「この冬あなたを魅了する室内ゲーム」として、9つのアナログゲームが特集され、その一つとして「オセロ」も、「20世紀最大(?)の発明」と紹介されていました。しかし50年以上経過した今、その中のアナログゲームで現在も残っているものは決して多くありません。「オセロ」もまた、この先長い歴史の中で例外ではなくなるかもしれません。
それでも、昭和の時代に、各家庭に配達されていた牛乳瓶のふたを使って石を手作りし、その石を使って多くの方が楽しみ、評判となったことをきっかけに大ヒットした「オセロ」の魅力の原点、「人と人が向き合い、アナログの盤を使って、ひっくり返す気持ちよさ、真摯に考える楽しさ」は、今でも色褪せていません。
私は今年57歳となり、1973年「オセロ」発売開始当時の父の年齢(40歳)を大きく超えましたが、今でも、父の経験・創意工夫、そして何よりも挫折しても何度も奮起する精神力に遠く及ばないと感じます。しかし微力ながら、父の「一人でも多くの方々がオセロを末永く楽しんでほしい」という願いに貢献していきたいと思っております。

