中嶋勝彦大使たより(前編)

その一

長澤征次会長とお電話する機会があり、水戸への恩返しが足りない、大使だよりにも寄稿できていない言い訳を申し上げました。実は、家内の実家がある富山県井波という町に居ることが多く、そこでの活動をメールでお伝えしたところ、水戸にはない歴史や文化は興味深いので「大使だより」に寄稿を勧められました。恥さらしですが、水戸の思い出を交えながら、関東とは違う北陸の門前町の歴史や文化を知って頂くのも意義があると思い、筆ならぬキーボードを叩きます。

水戸で生まれ18歳で離れましたが、水戸で受けた教えが我が身を貫いていると齢80になり自覚します。まずは、子ども時分の思い出から。小学5年生の頃、同級生で後に日活スターになった和田浩治君と下校時、彼は大手橋の欄干を両手でバランスを取りながら歩いたり(お子さんは、ぜったいマネをしてはなりません。)、ナメクジや弘道館の生梅を食べたり、悪ガキぶりを発揮し、一方弱気の私は彼のカバンを抱える役回りをしていたと思います。和田君の夭折が惜しまれますが、今だから書けることですね。

弘道館では、床下を探検して下校の道草を食ったこと、梅林で東武館の寒稽古を素足で行い、竹刀の素振りをして体を温めたこともありました。水戸精神の片鱗を教えられたと今にして思います。

水戸学の大家であった名越時正先生が担任の先生であったのに、もっと水戸の歴史を聞いておくべきだったと今にして後悔します。水戸学が幕末の日本を動かし、慶喜公の英断が今日の日本の礎になっていると思います。そのことをもっと水戸人が誇りに思い、世に知られて良いと思います。

その二

水戸への恩返しが少ない言い訳は、家内の実家がある富山県井波という人口8千人の町が第二の故郷になったことにあります。家内がシベリア帰りの父を幼くして亡くしたことと関係しますが、それは後ほど述べます。

60数歳で仕事を終えた後、大学の教壇に立ちそれも10年前に終えてから井波にいることが多くなりました。井波は高岡市を北端とする砺波平野の南端に位置し、町ができたのは1382年(コロンブスのアメリカ発見の100年前)、後小松天皇から勅許を得て「瑞泉寺」が建てられた時に遡ります。砺波平野は集落をつくらないで、家が点在する散居村で知られています。社会科で習った方も多いと思います。

北陸は真宗王国と言われるように浄土真宗のお寺が多くあります。井波にある「瑞泉寺」は、京都東本願寺の別院であり、その伽藍の大きさは北陸一、日本では4番目です。戦国大名が覇を競いあった時代、井波の瑞泉寺に加賀の大名富樫氏の圧力に対抗した農民勢が集結し、富樫勢を打ち負かし、それから百年間、北陸一帯は百姓の持ちたる国と言われる一向一揆の勢力が統治し、戦国大名領地とは違ったのです。それが真宗王国と言われる信仰心の篤い土地柄をつくったのでしょう。百年間続いた一向一揆統治でしたが、有力拠点であった井波の瑞泉寺(井波城)が織田信長の命を受けた佐々成政により攻め落とされました。それが戦国時代の終わりと天下統一への道につながったのです。その後、井波は前田利家の領地となり、加賀百万石の藩下に入りました。

大工たちが朝鮮出兵の船を造り、伏見城を築城しました。その功績があった大工10人衆が井波に家屋敷を与えられ井波の現在の町並みと瑞泉寺を新たに建てました。これが井波拝領地大工と呼ばれる大工集団となり、各地の社寺建築に携わりました。

その三

瑞泉寺は、記録にあるだけで3回焼失、そのたびに大きく建直された歴史があります。1773年の再建に京都の大工から彫刻の技が伝えられ、その時、彫られた龍の彫刻は今も残る山門にあります。それ以来、井波では木彫刻師が大工から独立して発展し、多くの社寺の装飾を手がけました。大正時代に個人宅の座敷に欄間を飾る工夫が生まれ、普及しました。戦後の住宅ブームでは多数の欄間注文が舞い込み大いに繁盛し、彫刻師が多い時には300人になったという。ところが、バブル崩壊頃から住宅建築様式の変化で座敷がない家が増え、欄間の注文が殆どなくなりました。そのために彫刻師の減少が進み、今や100人ほどになり高齢化も進んでいます。徒弟制度で弟子を仕込む方式は、注文激減の経済的理由だけでなく、労働基準法の適用による労働時間管理、給与支払いのために存続できなくなっています。事実、弟子を育成できる親方が減っているだけでなく志願者も減っています。

日本各地に存在した木彫刻師がいなくなり、大型の彫刻を短時間で仕上げられる井波彫刻の集団は貴重な存在になっています。戦災で焼失した名古屋城本丸御殿が6年前に復元された際に大型の欄間7枚は40名ほどの井波彫刻師が共同制作したものです。水戸藩の小石川後楽園にある唐門(戦災で焼失)が4年前に復元され、その彫刻も井波彫刻師が行いました。公開について昨年9月の水戸大使の会でも話題になりましたのでぜひ訪ねてみてください。
https://www.tokyo-park.or.jp/park/koishikawakorakuen/news/2021/47606.html

今後も彫刻の修復、新規制作需要がありますから井波彫刻師が集団で残らないと日本の伝統工芸が維持できなくなります。平均年齢が65歳を過ぎる現状、後継者育成は井波だけの問題でなく日本の問題でもあります。

水戸近くの村松虚空蔵尊の彫刻は井波彫刻師が手掛けています。他にも社寺、山車、曳山、神輿、だんじりなど井波彫刻が飾られている例は全国に多くあります。彫刻の技の存続のために文化庁にも働きかける必要があります(後編に続く…)